2021年3月11日(木)

今日も今日とて、食事をとるためにガストへと向かった。空いている席を探していると、静かに説教をしている親と、説教をされている子どもがいて、説教の内容に大変興味が湧いてしまったので、親子の隣の席へと腰掛けることにした。
説教の内容はというと、子どもがわがままばかり言うため、親が、「それなら好きに、自由に、生きたらいいよ。お金をあげるから、自分の食べたい物を買って食べたらいいし、自分のしたいことを自由にしなさい。お母さんは一人で帰る。あなたは自由に一人で帰ったらいいよ」というようなことであった。子どもは親に見放されそうになっていることを察知したようで、ボソボソと、それは嫌だと親に訴えかけていたけれど、親は繰り返し繰り返し子どもに、あなたの好きにしなさいと静かに語りかけていた。そのあと、店員から伝票を受け取った親が立ち上がりレジへと歩いていくあとを、これで自由に帰れと親から渡された千円札を持った子どもがついて行き、結局、結末がどうなったのかは知ることはできなかった。おそらく、親は、子どもがわがままを控えるように改心することを望んでいて、子どもが改心をするのならば、一緒に帰ることを厭わないだろうと私は予想していた。
私は子どもがどんなわがままを親に対して言っていたのかだとか、親子の会話の細部は全く分からない。だから、私が受け取った穴だらけの情報にもとって考える。

子どもにとって、親は、自分の「世界」に等しい。そんな親から見放されるとは、子どもにとって、どんなに不安で、恐怖を感じることであろう。隣の席に座っていた親が子どもに対して行っていたのは、お互いにとってできるだけよい着地点を目指す対話ではなく、婉曲的に一方的に子どもを自分に従わせようとする支配であると、私はぼんやりと思うのだ。


私は普段なら、iPhoneで動画を見ながら食事をとることが多いのだけれど、隣に親子、しかも説教中という状況では、動画を見ながら食事をとることはする気になれなかった。子どもにとっての手本として振る舞った方が、今はよいだろうと判断したためである。子どもが日常的にそばにいる人間は、子どもの手本となる「よい行い」を常に心がけていなくてはいけないから、ずいぶん息苦しいのではないだろうか。機会があれば、子どもが日常的にそばにいる人に、尋ねてみたいと思う。

 

ガストへと向かう前に、そろそろ海老入り肉だんごと白菜キムチのチゲではなく、別のものを食べようかな、という考えがよぎったけれど、いざガスト店内の席についた私は、迷いなく注文用タブレットで海老入り肉だんごと白菜キムチのチゲとほうれん草ベーコンを選んだ。これで五日連続で海老入り肉だんごと白菜キムチのチゲを食べたことになる。それだけ、海老入り肉だんごと白菜キムチのチゲが美味しくて、毎日食べても飽きずにいられるということなのだ。辛いものを好んで食べる人に、今一番おすすめしたい一品なので、みんなでたくさん海老入り肉だんごと白菜キムチのチゲを食べて、春限定メニューから常備メニューへ設置されるようにしよう。